にょほほ電鉄 - 路線 - 東京兵器補給廠線跡・・・
東京兵器補給廠線は、当時の陸軍によって敷設された、兵器や弾薬
を輸送するための専用線。東京都北区は、戦前には軍用施設が密集
し、現在の国立スポーツ科学センターの場所には東京兵器補給廠が
存在した。1929年、赤羽付近の国鉄の線路と東京兵器補給廠を
結ぶための専用線が開設され、戦時中まで使用されたという。現在
線路跡は緑道公園となっている。この項では、専用線跡を国鉄分岐
点から東京兵器補給廠跡地までを辿る。
※訪問日:2015年2月

■東北本線との分岐部

赤羽駅北側のJR東北本線の線路。画像右側が赤羽側となる。東京
兵器補給廠線はこの地点から分岐し、現在の西が丘方面へと線路を
延ばしていた。画像左側は赤羽八幡神社であるが、線路敷設の際に
小山が削り取られている。石積みの擁壁がその名残。
■赤羽八幡神社

上記の画像の背後がこちら。赤羽八幡神社の参道の石畳と、擁壁の
間に専用線が敷設されていた。線路跡はこの先、当時は存在しなか
った東北新幹線の高架橋を潜る。
■赤羽八幡神社

JR赤羽駅の北側に位置する神社。西暦784年に坂上田村麻呂が
この地に陣を取り、八幡三神を勧請して武運長久を祈られたとされ
る。1971年に東北新幹線の工事が着工した際、この神社の小山
にルートが重なり、止む無く神社境内の下をトンネルにて通過する
事となった。現在では鉄道見学スポットとなっている。また当神社
の『下元8運お守り』が某アイドルのファンに絶大な人気があると
か。なお線路跡は、画像の道路を横切るように敷設されていた。
■空き地となった専用線跡

上記画像の背後がこちら。東北本線から赤羽八幡神社の参道を経由
して分岐した専用線の線路は、進路を西へと変える。現在は整地さ
れ、一部は住宅地に転用される。
■赤羽緑道公園

専用線跡である住宅地の路地を抜けると、赤羽緑道公園へと差し掛
かる。この緑道公園は、東京兵器補給廠線の線路跡を改修して公園
としたものである。
■赤羽緑道公園を進む

赤羽緑道公園は東京兵器補給廠線の線路跡を改修した公園であるが
線路跡であった事を示すべく、遊歩道は線路を模したタイルが敷き
詰められている。
■道路との交差部

赤羽緑道公園を進むと、赤羽保健所通りとの交差部に差し掛かる。
交差部は歩道橋となっているが、この歩道橋の欄干が蒸気機関車の
動輪の模様となる。
※矢印を画像にかざすと動輪のモニュメントの画像へ。
■赤羽緑道公園を進む

歩道橋を渡り終えると、再び遊歩道が続く。画像はベンチを備えた
休憩所であるが、あたかも小駅の様相を呈している。
■赤羽緑道公園を進む

遊歩道を進むと、風見鶏を載せた、時計台ふうの休憩所が現れるが
風見鶏が「鶏」ではなく汽車となっている。
■赤羽緑道公園を進む

都道445号線を越え、再び遊歩道が続くが、遊歩道の一部が鉄橋
を模している。ただし現役当時、ここに鉄橋があったかは不明。
■赤羽自然観察公園の脇を進む

赤羽緑道公園は、公務員宿舎赤羽住宅の付近で終点となる。この先
は赤羽自然観察公園の脇を進む事となるが、この先の線路跡は建物
の用地へと転用されてしまっている。歩道の左脇、集合住宅が立っ
ている場所が線路跡。
■専用線跡に建てられた住宅

再び都道445号線と交差する。その先の線路跡は住宅地へと転用
されている。画像の道路の左側の住宅用地が線路跡。
■専用線跡に建てられたマンション

線路跡は、現在の凸版物流の敷地内を通る。その先には細長いマン
ションが現れる。画像は区営赤羽西六丁目アパート側から撮影した
ものであるが、マンション敷地が線路のカーブのように湾曲してい
るのが判る。
■国立スポーツ科学センター

マンションの先には国立スポーツ科学センターおよび西が丘サッカ
ー場が現れる。このセンターの敷地が、東京兵器補給廠の跡地とな
る。戦後、米軍によって接収されるも1958年に日本に返還され
用地は1972年に国立西が丘競技場となった。2001年には敷
地内に国立スポーツ科学センターが開所した。
東京兵器補給廠線は、戦後には既に廃線となるが、1960年代ま
では線路も残されていた。一時期、地下鉄7号線(現:南北線)の
車庫線用地として候補に挙がるも、地元住民の反対によって計画は
白紙となった。現在は遊歩道として当時の面影を残すのみとなる。