にょほほ電鉄 - 路線 - 東日本旅客鉄道越中島支線・・・
越中島支線は、小岩駅から越中島貨物駅までを結ぶ総武本線支線の
通称である。江東区内を流れる小名木川は江戸時代からの歴史ある
運河であり、この運河との物流連絡のため1929年に亀戸〜小名
木川間が開業した。後に越中島(現:越中島貨物)まで延伸、戦後
には港湾局による専用線が接続し晴海や豊洲まで線路が伸びていた
(詳細は東京都港湾局専用線を参照)最盛期には290万トンもの
貨物を取り扱ったが、物流の変化により小名木川駅は廃止、現在は
一日3便のレール運搬列車が往復するのみである。この項では都心
に残る非電化路線を、亀戸駅から越中島貨物駅方面へと紹介する。
※注釈のない画像は、画像左側が越中島貨物駅方面

■JR亀戸駅

江東区内に存在する総武線の駅。北口には駅ビルや東武亀戸線との
乗換口、また駅前にはバスターミナルもあり江東区北部の繁華街の
様相を呈しているが、対して画像の東口は、ショッピングモール・
サンストリートの最寄となるものの、幹線道路である京葉道路から
一歩入った路地裏にあり判りづらい。さらに駅入口上部には越中島
支線の高架橋がそびえ、圧迫感を感じずにいられない。越中島支線
は画像左方向の越中島貨物駅へと向かう。
※矢印を画像にかざすと駅構内から見た越中島支線の画像へ
■京葉道路との交差部

亀戸駅を出ると総武線と離れ、南方向へと向かう。画像は国道14
号線「京葉道路」との交差部。立派な橋梁で跨ぐ格好となる。京葉
道路の歩道はガーター橋の橋脚が覆いかぶさり暗い雰囲気となるが
ナント壁面に「張り紙禁止・国鉄」の記載がある。国鉄が消滅して
四半世紀、不思議な空間に迷い込んだと感じるのは作者だけであろ
うか。
※矢印を画像にかざすと「張り紙禁止・国鉄」の画像へ。
■竪川橋梁

京葉道路を越えた越中島支線は、急カーブで真南へと進路を変える
が、その途上で竪川を渡る。竪川橋梁は複線の幅を持つトラス橋で
あるが、越中島支線は全線単線のため、その構造を持て余している。
なお竪川は、亀戸付近は暗渠化され、竪川河川敷公園となる。また
頭上には首都高速7号小松川線が通る。
■新大橋通りとの交差部(幹線29号架道橋)

竪川を越えた先、西大島付近で新大橋通りを跨ぐ。新大橋通りの地
下には都営新宿線が走る。非電化路線と地下鉄の交差は、何とも違
和感を感じ得ない。
■小名木川橋梁

西大島を過ぎると、小名木川が現れ、越中島支線は小名木川橋梁で
川を渡る。小名木川は16世紀末、徳川家康が小名木四郎兵衛に命
令し開削させた歴史ある運河。水運の要所であるこの川と鉄道を接
続させるため、小名木川駅が開業した。
■小名木川駅跡

小名木川橋梁を越えた先に、かつて小名木川駅があった。1929
年に開業した小名木川駅は、最盛期にはコンテナホーム5面、コン
テナ荷受線6本、有蓋車用貨物ホーム4面、貨物荷役線4本の規模
を持った貨物専用駅で、城東地区の鉄道貨物の拠点であった。だが
物流の変化により2000年をもって廃止となった。現在は複線分
の線路用地を残し、大半の用地はマンションとショッピングモール
「アリオ北砂」となるが、アリオ北砂前の信号標識は未だに「小名
木川駅前」と記載されている。
※矢印を画像にかざすと「小名木川駅前」信号標識の画像へ。
■北砂二丁目公園(小名木川駅跡地)

「アリオ北砂」の南側には北砂二丁目公園があるが、この公園には
線路と車輪のモニュメントが設置され、ここに貨物駅があった事を
偲んでいる。車輪は実際に貨物車両に使われていたもの。またモニ
ュメントに隣接して「小名木川駅の歴史」という説明書きが設置さ
れている。
※矢印を画像にかざすと説明書きの画像へ。
■第2八右エ門ガード

北砂二丁目公園の至近にある「第2八右エ門ガード」は高さ制限が
1.6mという非常に低いガードとなる。いわゆるタクシー泣かせ
の「提灯殺し」ガードとして有名で、大田区中央二丁目ガード(J
R東海道線)、高輪橋架道橋(同)、足立区柳原ガード(東武線)
と共に、一部のタクシーは、あまりの低さに通過を断られる場合が
ある。なお付近は生活道路のため、みだりに車で通過を試みる事は
遠慮願いたい。
※矢印を画像にかざすとガード下の画像へ。
■砂村運河橋梁

小名木川駅跡を過ぎ、清洲橋通りを越えると、線路は地平区間とな
り、その先で仙台堀川公園と交差する。この公園は名前の通り元々
は、1933年に掘削された河川(砂村運河→仙台堀川)であるが
地盤沈下の激しい砂町地区は台風の度に河川氾濫の危機に晒されて
いた。そのため1982年に治水目的で、既に運河の機能を果たし
ていなかった部分を埋め立て親水公園とした。現在は親水公園であ
るものの、橋梁の下に歩行者用の浮橋が河川と平行して設けられて
いるのが、実に珍しい光景である。
※企業敷地内(一般立入禁止箇所)より特別に許可を戴き撮影。
■葛西橋通りとの交差部(幹線27号踏切)

砂村運河橋梁の先に、葛西橋通りとの交差部がある。亀戸からやっ
て来た越中島支線で最初の踏切となる。砂村運河橋梁より葛西橋通
りの複線分用地は、片方は遊歩道となり「南砂線路公園」と名づけ
られている。画像右端が南砂線路公園。
※矢印を画像にかざすと「南砂線路公園」看板の画像へ。
■南砂緑道公園を跨ぐ(城東電軌跨線ガード)

葛西橋通りを越えた先、南砂緑道公園をガーター橋で跨ぐ。この緑
道公園は元々、城東電気軌道(後に都電となる)の線路跡である。
1972年に廃止となった後に緑道公園へと整備された。このガー
ター橋の名称は「城東電軌跨線ガード」で、城東電軌の名が消えて
実に70年以上(都電廃止後40年)経った現在でも「城東電軌」
の名が残るのは奇跡に近い。なお城東電軌に関しては都電砂町線
項を参照いただきたい。
※矢印を画像にかざすと「城東電軌跨線ガード」看板の画像へ。
■永代通りとの交差部(幹線3号踏切)

南砂緑道公園を越えると、南砂二丁目団地を右に眺めるが、この団
地は元々、汽車製造株式会社東京製作所であった。汽車製造はその
名の通り、古くは蒸気機関車の製造、また営団地下鉄を初めとする
鉄道車両も製造していた。汽車製造で製作された車両は、ここから
越中島支線で運ばれていた。南砂二丁目団地の先で永代通りと交差
する。道路の下には東京メトロ東西線が走る。画像奥の団地が南砂
二丁目団地。
■東京運河橋梁(画像奥側が越中島貨物駅方面)

永代通りの踏切を越えた先に、ガーター橋が現れる。この地には過
去に「洲崎川」という川が流れていて、越中島支線はガーター橋に
て洲崎川を渡っていた。洲崎川は元々、明治時代は海岸線であった
ものを、埋め立てにより運河となった経緯がある。1982年には
洲崎川自体も埋め立てられたが、橋梁のみは現存している。なお余
談であるが、東京メトロ東西線の南砂町駅は、洲崎川の真下に建設
された。
■新砂踏切(画像奥側が越中島貨物駅方面)

永代通りを越えた先から、住宅地の雰囲気は消え、運送会社の基地
や倉庫街となる。線路の右側からは、地下鉄東西線の車庫線が地下
から顔を出し、深川車両基地へと向かう。新砂一丁目交差点付近に
ある踏切が新砂踏切。画像奥が越中島貨物駅方面。ここから先は越
中島貨物駅のほか、東京レールセンターやJRバス関東の東京支店
など、JR関連の施設が集中するエリアとなる。
■越中島貨物駅(画像奥側が亀戸方面)

越中島支線の終着駅。「貨物駅」と名乗るものの実際は東京レール
センターからのレール輸送臨時列車が、一日3便が発着するのみで
貨物列車の発着はなく、貨物駅としても機能していない。
■越中島貨物駅・遠景(画像奥側が亀戸方面)

画像右側はJR京葉線で、画像右奥側に潮見駅がある。京葉線は3
線となっているが、左端の1本が越中島貨物駅につながっている。
なお当駅からは過去に、豊洲・晴海へと向かう東京都港湾局による
専用線が延びていた(詳細は東京都港湾局専用線の項へ)越中島支
線は1997年をもって定期貨物列車は廃止となっているが、現在
も日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となっている。